多度大社 〜現地訪問記〜
2005年9月某日、妖怪蒐集家・渡辺たいち氏の誘いで、三重県桑名の多度大社に行ってきた。
正直に言うと、ここへ行ったときは、「大百足」に関連しそうな神社であることを、すっかり忘れていて、完全に観光気分だった。
そのため、資料になりそうな写真も撮れていない。(撮ってはいたがブレブレで使い物にならない)
よって、今回は写真は無しでの紹介になる。ご了承いただきたい。
また、後日、訪問できれば、再度レポートしたいと思う。
旧国幣大社で延喜式にも「多度神社名神大」と記述されている古社である。
以下に公式サイトの由緒を引用する。
古くは、標高403メ−トルの多度山全体を神体山として仰いでおりましたが、 雄略天皇の御代に御社殿が初めて現在のところに建てられました。
奈良時代末期には、満願禅師が多度神の神託を受け、天平宝字7年(763)に我が国で3番目に古い神宮寺が建立され、後に国分寺に準ずる扱いを受け寺院70房、僧侶300余輩を数える大寺院となりました。
当大社は、『延喜式』巻九神名帳に「多度神社名神大」とみえ、いわゆる延喜式内名神大社であり、後一条天皇の御代には東海道六社のうちの一社にも数えられました。
南北朝時代の暦応年間には多度祭の上げ馬神事、流鏑馬の神事も始まったと伝えられ、御神徳はいよいよ広大無辺となり、皇室からも度々幣帛が献られています。
明治6年に県社、大正4年には國幣大社という社格が授けられました。
現在の「多度大社」という社名になったのは最近のこと(平成8年)で、元々は多度神社、多度神宮寺とされていたらしい。
主祭神は天津彦根命。天照大神の息子にあたる。
祭神の関係から「北伊勢大神宮」とも称され、「お伊勢まいらばお多度もかけよ、お多度かけねば片まいり」とも謡われていたとのこと。
多賀大社の「お伊勢まいらば お多賀へまいれ お伊勢お多賀の 子でござる」と同じように扱われていたようだ。
しかし、今回、注目したいのは天津彦根命ではない。
その隣の別宮・一目連神社に祀られている天目一箇命に注目したい。
そう、天目一箇命といえば、御上神社の項で紹介した天之御影神と同一神とされる金工の神である。
天津彦根命の息子であり、桑名(北伊勢)地方の豪族が氏神としていたらしい。
一目連神社の案内板には次のようにある。
多度神社の御子神で御父 天津彦根命を扶けて北伊勢地方を開拓せられ。
又、我が国、金属工業の祖神でもあり、天変地異ある毎に現に御霊を現して諸難を救い給い、時に応じ龍神となりて天朔り旱天に慈雨を恵み給うと云う信仰もあって古来神殿には御扉を設けない。
そう、ここでも御上神社と同様に龍神とされ、雨乞いの神としても祀られているのだ。
その単眼のイメージから台風を連想することも出来ることから、漁師が嵐除けの祈願に訪れることも多いと言う。
さらには、古代には多度山を神体山とする神奈備山信仰であったということも一致する。
また、山の中腹には、古代祭祀の跡と見られる磐座が現存しているらしい。
近くの四日市市には、俵藤太が龍神から授かったとされる兜をご神体として祀る鵜森神社もある。(これについては後日報告する)
ここまで来ると、何らかの関係性を疑いたくなるのが人情と言うものである。
ちなみに本宮と別宮の間の奥には、注連縄が張られた岩穴があり、天岩屋戸?にも見えた。