鵜森神社 〜現地訪問記〜
多度大社と同日、三重県四日市市の鵜森神社にも足を運んだ。
ここには、俵藤太が龍王から授かったと言う兜が保管されている。
(兜の詳細については「俵藤太の遺産」で述べたのでそちらを参照していただきたい)
なお、滞在時間が短かったことや日も暮れかけていたため、まともな写真が撮れなかったことを先にお詫びします。
近鉄四日市駅の駅前にあるこの神社は、もともとは、文明2年(1470年)に築城されたとされる浜田城があったところで、歴代城主らを祀っている。
祭神は天照大御神、藤原道真命、建速須佐乃男命の3柱。これに平成二年から境内社であった御霊社の4柱(田原美佐守忠秀命、田原紀伊守藤綱命、田原遠江守元網命、田原与右衛門重綱命)が合祀されている。
てっきり、俵藤太本人が祀られているものと思い込んでいたが違ったらしい。
御霊社の4柱はいづれも浜田城の歴代城主である。
もともとの祭神とされる3柱は何故だか不明である。天神(藤原道真公)については、田原家も藤原氏の親類にあたることから何となく納得もいく気もするが…
本殿のほかに、境内には「田原稲荷大明神」なる稲荷社がある。
祭神の表記はなかったが、おそらくは稲荷社なので宇迦之御魂大神だろうか。
この神は須佐乃男の子供にあたる神で、延喜式では伊勢神宮外宮の神豊受大神と同体であるとされ、また一般に五穀の発祥の元の保食神、そして大宜都姫とも同体であるとされる。いづれにしても穀物の神である。
本殿の須佐乃男はこの関係からだろうか。
しかし、何故、ここに稲荷なのだろうか。
現地で悩んでいたとき、同行の妖怪蒐集家・渡辺たいち氏が面白い説を唱えた。
「田原(=俵)にかけた洒落なんやないの?」
なるほど、そうか。龍王からの贈物に「無尽の米俵」というものがあった。考えてみれば、それが稲荷神につながっても不思議はない。
なお、もう1社、境内社が見つかったが、それが何を祀る社なのかは表示されていなかった。もしかすると、それが俵藤太を祀ったものだったのかもしれない。
最後に、神社の入り口に四日市市教育委員会が立てた案内板があったので、引用する。
国指定重要文化財(工芸品) 十六間四方白星兜鉢
四日市市指定記念物(史跡) 浜田城跡
十六間四方白星兜鉢は田原藤太秀郷にゆかりあるものとして奉納されたと言われている。現在は鵜森神社の社宝として保存されているが、鉢は16枚の鉄板を矧ぎ合わせて半球状にかたどり、その四方には薄い鍍銀板を被せた形跡がみられる。
かつて保管箱には「松平相模守 栗田右衛門尉寄進 万治二年一月吉日」と銘あり、また、袱紗の端には「因幡国住人馬淵源三郎」という縫文字があったと言われている。
鎌倉時代の特色が強く表されている作品である。
浜田城は、室町時代の文明2年(1470)に田原孫太郎景信の三男田原美佐守忠秀が築いたものである。その後、藤綱、元綱らがこの地を領したが、安土桃山時代の天正3年(1575)に織田信長の家臣滝川一益に攻められ落城したという。
昭和56年3月31日
四日市市教育委員会