俵藤太の子孫たち
平安〜鎌倉時代、俵藤太つまり藤原秀郷の流れをくむ秀郷流藤原氏は源氏、平氏にならぶ武家の名門であった。
秀郷の子孫を名乗る武家は後世、続出する。
まずは、源義経との関わりが深い奥州藤原氏。奥州藤原氏が頼朝によって滅ぼされた時捕虜として捕らえられた家人に頼朝の家来が、「奥州の勢力は古来から源氏の家人だ」みたいなことを話した、するとその捕虜は「奥州藤原氏は藤原秀郷を祖とする鎮守府将軍の家柄だ、兵衛佐(ひょうえのすけ;頼朝のコト)ごときの家来なんかじゃない!」と激怒したと言う話が残っている。(当時の武士たちの間では征夷大将軍より鎮守府将軍の方が武門の棟梁だという考えがあった。)
さらには、歌人として名高い西行法師も秀郷流の武士であった。
このほか、尊卑分脈によると大友、武藤、少弐、佐藤、山内首藤、後藤、尾藤、波多野、松田、小山、伊賀、大田、小山、薬師寺、長沼、結城、下河辺、足利、佐藤、近藤、阿曾沼、園田、佐貫氏などがあげられる。
時代は下り、戦国時代に入ると、近江の蒲生氏が秀郷流を名乗っている。この蒲生氏から以前紹介した「むかで姫」こと「於武の方」が南部利直に嫁いでいる。
さらに時代は下り、江戸時代に入ると土佐24万石の大守となった山内氏も秀郷流を名乗っている。
仙台藩の支藩である一関藩(禄高三万石)の藩主・田村氏の祖先は古代に活躍した征夷大将軍・坂上田村麻呂と伝えられるが、藤原秀郷の流れをくむとの説もある。
また、忠臣蔵で有名な大石内蔵助(近江の大石家の出自)も秀郷の流れである。
参考資料:野口実「伝説の将軍 藤原秀郷」(吉川弘文館,2001)
徳永真一郎「瀬田の唐橋」(アリス館,1975)
徳永真一郎「瀬田の唐橋」(アリス館,1975)