続・ムカデ姫の墓
日本冥所大鑑の逸匠冥帝氏より「むかで姫の墓」(参照)についての写真資料を頂戴したので紹介させていただきます。
(写真をclickしていただくと拡大します)
現在は光台寺境内にある墓地ではなく、民家のそばにあるそうです。(元々は境内にあったのだろうとのこと)
写真を見ていただくと、現在でも綺麗に整備されており、信仰(もしくは観光?)の対象になっている様子が見て取れます。1輪ずつの1対だけではあるが花が供えられているところを見ても、世話をしている人物がいるようです。
また、現地に立っている案内板の写真も頂いたので引用します。
ムカデ姫のお墓由来
この墓は南部27代藩主利直の奥方源秀院殿のお墓です。源秀院殿は、蒲生飛騨守氏郷の養妹で、名は於武といって文禄3年(1594)3月、南部家へお輿入れいたしました。その時、蒲生家の祖、俵藤太秀郷が近江の石山で、大ムカデを射止めた時にもちいたと伝えられる矢の根をみやげとしました。その後、利直が亡くなり、於武の方も寛文3年7月26日、江戸桜田の邸で逝去されましたが、姫の遺言によってここに葬りました。当時、お墓の前には濠があって、南部家ではこれに太鼓橋をかけることになりましたが、いよいよ竣工して渡り初めという日に、一夜のうちにその橋がさんざん破壊されておりました。その後、何回かけても橋が壊されてしまうというので、誰いうとなく、「それは大きなムカデが出て橋をこわしてしまうのだ。」といううわさがたち、そのうわさが殿様の耳にも入り、大変不吉なことと考えられました。そこで、殿様は墓参の当日に朝早くからたくさんの武芸者を見張番につけ、数千人の人夫を雇い入れて、一気にその日のうちに工事を終え、やっと橋を完成させました。しかし、その後もこの附近では俵藤太に射られたムカデの怨霊が何百匹となく毎夜のようにはいまわり、姫の百千筋の髪の毛がことごとく蛇に化け、その蛇はみな片目であったといい伝えられております。このことが、また城下の評判となって誰いうとなく「ムカデ姫のお墓」とよぶようになりました。
最近、俺はこの文の最後にある「片目の蛇」というものに興味を持っています。
「片目の蛇」というと「天目一箇神(あめのまひとつのかみ)」という日本神話の神が連想されます。
このことについては、後日、語りたいと思います。