瀬田の唐橋の歴史
大百足退治の舞台となった瀬田の唐橋は古くから交通の要所であり、軍事的にも京の守護の要であった。
今回はその唐橋の成立から今日に至るまでを紹介していくことにする。
まず、位置であるが、現在の位置に瀬田の唐橋を架けたのは織田信長で、それ以前は現在より約400メートル下流の位置にあった。
最初に架けられた橋は両岸に生えていた大きな藤の木を利用したつり橋であった。つぎに、景行天皇(日本武尊の父)の時代丸木舟を横に何艘も並べ、藤や葛のツタで絡めた搦橋(からみばし)が架けられた。
応神天皇元年(270年)2月、応神天皇の義兄にあたる香坂皇子と忍熊皇子が反乱を起こす。香坂皇子は勝利を祈る占いの途中、自分の負けを予言し、その場で倒れて亡くなり、忍熊皇子は神功皇后(応神天皇の母)の家来である武内宿禰の軍に攻められ、瀬田の唐橋から身を投げて自害。(「神功記」より)
推古天皇の時代には、唐橋は木橋になった。
672年、壬申の乱。西岸に弘文天皇の近江朝廷軍、東岸に大海人皇子軍が陣取り、瀬田川を挟んでの合戦となる。
754年、恵美押勝の乱。孝謙天皇の軍が奈良から逃げる恵美押勝(藤原仲麻呂)の行く手を阻むため、瀬田の唐橋を焼き落とす。
1180年4月11日、以仁王(後白河天皇の皇子)が諸国の源氏に宛てた「平家打倒」の令旨を持った新宮十郎行家が東へ渡る。この令旨に応え、8月に源頼朝が伊豆で兵を挙げ、9月には源義仲が木曾で兵を挙げる。
1183年7月22日、京都へ向かう義仲軍の先発隊が平氏軍と瀬田川を挟んで交戦。
1184年1月20日、後白河法皇より「義仲追討」の命を受けた源範頼(三万余騎)と義仲の忠臣・今井四郎兼平(五百騎)が瀬田川を挟んで交戦。
1221年、承久の乱。6月13日、後鳥羽上皇の京軍(山田次郎重忠が率いる比叡山の僧兵三百騎)と北条義時の弟・時房率いる鎌倉幕府軍が瀬田川を挟んで交戦。
1336年、建武の戦い。足利尊氏の弟・直義の率いる足利軍と朝廷軍が瀬田川を挟んで交戦。
1571年1月、織田信長の命により朽ちて通行不能になっていた唐橋の代わりに舟橋(船を鎖で繋げた簡易の橋)が架けられる。
1575年10月12日、織田信長の命で、瀬田城城主・山岡景隆によりほぼ現在の位置に架け直される。信長が渡り初めを行う。
1582年、本能寺の変で織田信長を謀殺した明知光秀の安土への進攻を妨げるため、山岡景隆によって唐橋を焼き落とされる。景隆は瀬田城に火をつけ、甲賀の山中へ退く。
江戸時代、唐橋の管理は譜代大名である膳所藩・本多家が行った。
1870年、明治新政府の命令により、全国の城が廃止され、膳所城が取り壊される。
現在、JR東海道本線、東海道新幹線、国道1号線、旧唐橋、名神高速道路、京滋バイパスが瀬田川の上流1キロメートル足らずに架かっている。
参考文献:瀬田の唐橋(徳永真一郎、1975年発行)