俵藤太の遺産
俵藤太の遺産として、現存しているものは、栃木県佐野市・田沼町、群馬県赤堀町、三重県四日市市、滋賀県大津市などに集中している。
まず、龍王から授かったという「避来矢」と呼ばれる大鎧が下野国佐野庄(現在の栃木県佐野市・田沼町)を本拠とした佐野氏によって相伝されていた。
この鎧は近世初頭まで佐野氏の居城・唐沢山城内の春日神社に安置されていたが、1614年、佐野氏が改易された後、各地を転々とすることとなり、江戸で火災に遭ったため、現在では兜鉢や壷板などの金属部分を残すのみとなった。
現在は栃木県佐野市の唐沢山神社に保管され、国の重要文化財に認定されている。
なお、この唐沢山神社は藤原秀郷が居城としたところで、藤原秀郷を祀っている。境内には「車井戸」とよばれる井戸があり、その井戸が琵琶湖の龍宮に繋がっているという伝承がある。
秀郷が、急に物が必要になった時は、夜のうちにその品物を紙に書いて井戸へ入れると、次の朝には、必ず、その物が井戸のふちに置いてあって、たいへん助かったといわれている。
つぎに三重県四日市市の鵜森神社には、龍王から授かったとされる兜(十六間四方白星兜鉢)が保管されており、これも国の重要文化財に指定されている。
この鵜森神社は、1470年に築城されたとされる浜田城があったところで、浜田城主の先祖といわれている藤原秀郷や初代城主田原忠秀らを祀っている。
ちなみに、私はこの兜を妖怪蒐集家・渡辺たいち氏主催の「四日市妖怪ツアー」の時に四日市市立博物館で見た。しかも、その夜、車の中で仮眠をとっていたのだが、その場所がなんと、鵜森神社だったらしい。知らなかったとはいえ、なんとも惜しいことをした。
滋賀県大津市には、三井寺に鐘が残っている。これも俵藤太が龍王から授かって、三井寺に寄進された物だという。
この鐘は「弁慶の引き摺り鐘」とも呼ばれ、山門との争いで弁慶が奪って比叡山へ引き摺り上げて撞いてみると ”イノー・イノー”(関西弁で帰りたい)と響いたので、弁慶は「そんなに三井寺に帰りたいのか!」と怒って鐘を谷底へ投げ捨ててしまったという。鐘にはその時のものと思われる傷痕や破目などが残っている。
また、この鐘は寺に変事があるときには、その前兆として不可思議な現象が生じたという。良くないことがあるときには鐘が汗をかき、撞いても鳴らず、また良いことがあるときには自然に鳴るといいわれている。
「園城寺古記」という戦国時代の記録には、文禄元年(1592)七月に鐘が鳴らなくなり寺に何か悪いことが起るのではないかと恐れた僧侶たちは、様々な祈祷をおこなったところ八月になってようやく音が出るようになった。
また建武の争乱時には、略奪を恐れ鐘を地中にうめたところ、自ら鳴り響き、これによって足利尊氏軍が勝利を得たといわれるなど、まさに霊鐘というにふさわしい様々な不思議な事件が伝承されている。
参考資料:野口実「伝説の将軍 藤原秀郷」(吉川弘文館,2001)